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くだもの歳時記

山形さくらんぼ150年の歴史

山形さくらんぼ 佐藤錦 古木さくらんぼ

 

明治元年さくらんぼ日本に渡来


サクランボが日本に渡来したのは明治元年のこと、山形県へは明治8年に入ります。この時は全国で試作されたのでしたが、山形県のほかではほとんどが霜害・梅雨・台風被害のため失敗しました。


被害が比較的少ない山形県だけが実績を上げることができたのですが、時代背景的には米、穀物などの基礎食料が優先。果物ではリンゴ、梨などの大衆消費が重要であり嗜好品的な果物には、重要性が無かった時代でした。


その後さくらんぼ栽培はリンゴ、洋なし、桃などの果物とともに山形県内で普及し、官民一体となっての努力も実り、現在、山形県のさくらんぼ生産量は全国生産量の75%を占めるまでの「さくらんぼ王国」ができあがりました。

 

▼さくらんぼの世界生産と日本生産

さくらんぼ生産量 世界さくらんぼ生産

資料参考:農水省


 

明治8年さくらんぼが山形県に


佐藤錦 歴史 山形さくらんぼ

さくらんぼの鏡詰め、粒の大きさ、色、方向を揃えて箱詰め

ある時から「桜桃(おうとう)」のことを「さくらんぼ」とよび始めました さくらんぼの原産地は、西南アジア地方で、自然に育ち、人や鳥などが食べていたのが広まったものといわれています。原産地のトルコ共和国のギレスン市と山形県寒河江市は、1988年 さくらんぼ姉妹都市として友好関係を結んでいます。

日本にさくらんぼが入ってきたのは、明治元年(1868)です。ドイツ人のガルトネルが北海道にあった6本のさくらんぼを植えました。

 

さらに、北海道を開拓する人たちが、アメリカから25種類の苗木を輸入し、これを東京で育て、全国に配りましたが、 東北や北海道を除いてはうまく実をならせることができませんでした。

 

山形には、明治8年(1875)に東京から、洋なし・りんご・ぶどうなどの苗木にまじって、3本のさくらんぼの苗木が入ってきました。 明治9年(1876)には、初代の山形県令三島通庸(みしまみちつね)が、北海道からりんご・ぶどう・さくらんぼの苗木をとり寄せ、明治11年(1878)には、試験場をつくり育ててみました。

 

寒河江では、明治9年(1876)に内楯の井上勘兵衛が、北海道からさくらんぼの苗木をとり寄せました。

 

▼山形さくらんぼの品種構成図

さくらんぼ品種 山形さくらんぼ 佐藤錦

資料:山形県


 

さくらんぼの育ての親 本多成充


明治21年(1888年)に山形県寒河江市の本多成允(ほんだせいいん)と渡辺七兵衛が中心となり、農産物試験場をつくり、 キャベツ・じゃがいも・りんご・さくらんぼなどの西洋野菜が、この土地にあっているかどうか試験をしたのです。 自分の畑に何種類かのさくらんぼを植えてみました。 水はけの良い畑にさくらんぼが合うのではないかと考えたのです。


やがて成允は農家の人たちに苗木を分け、植えるようにすすめました。 そして、これが大きくなると、赤い実をつけ、とてもよい収入になることがわかりました。

 

 


さくらんぼ 歴史 佐藤錦

さくらんぼの育ての親、本多成充

本多成充(ほんだせいいん) 1847年~1917年

鶴岡生まれの庄内藩士であったが、明治維新に家禄を失い、西村山郡役所書記となる。明治20年頃より自宅周辺でさくらんぼの栽培を試み、啓蒙普及に努めた。山形さくらんぼの育ての親として知られる。のちに寒河江町長(現寒河江市)となる。

 

 


 缶詰にして販売した井上勘兵衛


その後、農業試験場を移転し、さらに「さくらんぼ」は広まりました。 明治28年(1895)頃には、品種も増えて、生産量もだんだん増えてきました。 しかし、地元だけでは、買う人が限られますし、生のままで県外など遠くに売りに行ったのでは、新鮮さがなくなってしまいます。 そこで、井上勘兵衛は、缶詰にすることに成功し、独自のラベルをはり遠く横浜まで売り出したのです。

 


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さくらんぼの缶詰を開発した

井上勘兵衛(いのうえ かんべい) 1859年~1917年

明治9年、北海道開拓使庁より県が苗木を導入するとき同行し、苗木を譲り受け自宅に植栽した。明治11年より山桜を台木として苗木づくりをはじめ普及を図った。明治28年から自宅でさくらんぼの缶詰加工に着手し、苦心の末成功した。

 

 


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山形新幹線さくらんぼ東根駅前の佐藤錦を称える像


 

佐藤錦の生みの親 佐藤栄助氏


大正元年(1912年)に佐藤栄助氏は、日持ちはよくないが味のいい「黄玉」と、酸味は多いが固くて日持ちのいい「ナポレオン」をかけ合わせてみる。この未知なるものはやがて実を結び、氏の夢をはらみながら、すくすくと育ちます。 いよいよ10年後の大正11年に初めて新しい木に実が成りました。


これこそ世紀の発見「佐藤錦」の命名もまだされていません。「食味も日持ちもよく、そして育てやすいさくらんぼ」の夢に手が届きそうな実ができて、ここで氏は、さらに良いものを選び抜き、最終的に一本にしぼって原木にすることになりました。


大正元年から苦節16年、ここに山形生まれの比類なき品種「佐藤錦」が誕生したのでした。この秀逸な品種「佐藤錦」誕生には長い年月をささえる育種家の執念があったからこそだったのです。

 


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サクランボ「佐藤錦」を開発した佐藤栄助

佐藤栄助(さとう えいすけ) 1867年~1950年

 

家は代々醤油醸造業であったが、株で財を失い、果樹園の経営を始めた。明治43年本格的にさくらんぼの県外出荷をはじめたが、実割れと腐れに困り果て、大正元年より品種改良を行い、現在の主要品種「佐藤錦」を作り出した。

 

 


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サクランボ「佐藤錦」を拡販、普及につとめた

佐藤錦の育ての親、岡田東作氏

 

岡田 東作(おかだ とうさく) 1881年~1954年

中島天香園(東根市)を大正2年に創業し、りんごやさくらんぼの苗木を販売した。佐藤栄助の品種改良を側面的に支え、昭和3年作り出された優良なさくらんぼを「佐藤錦」と命名し、苗木を育成し拡販につとめた。

 

 

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山形サクランボの歴史は100年以上時代とともに進化

 


山形さくらんぼ100年 まとめ


 山形のさくらんぼの歴史を考えるとき、明治の初めに山形に導入され、寒河江市などの先駆者たちが前例のないサクランボという作物に果敢に挑戦して、本多成充氏らが試験場をつくり栽培方法を研究。井上勘兵衛氏て販路を開拓するために桜桃(サクランボ)缶詰という商品を開発しました

 

その後、東根市の佐藤栄助氏が「佐藤錦」という類まれなサクランボを開発し、岡田東作氏が拡販普及しました。その「佐藤錦」は缶詰用だったサクランボを生食用のサクランボとして市場を変えました。そして、生食用の初夏のくだものとして取り組みが生まれ全国区の知名度に育っていくことになったのです。

 

また、宅配便の開発者、小倉昌男氏の取組んだ「ヤマト宅急便」もさくらんぼの生食用の発展は大きな貢献をしたことは忘れてはいけません。「佐藤錦」というサクランボが知名度を高めた一因になっています。痛みやすいデリケートなさくらんぼを個別にお届けするシステムはそれまでありませんでした。

「さくらんぼ王国やまがた」の歴史はこのような挑戦者たちによって開拓されていったのです。

 

 

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