2008年03月12日

山形がさくらんぼ王国になるまでの話

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      さくらんぼの収穫風景 


サクランボが日本に渡来したのは明治元年のこと、山形県へは明治9年に入ります。この時は全国で試作されたのでしたが、山形県のほかではほとんどが霜害・梅雨・台風被害のため失敗。被害が比較的少ない山形県だけが実績を上げることができたのですが、時代背景的には米、穀物などの基礎食料が優先の時代であり、果物ではリンゴ、梨などの大衆消費が重要であり嗜好品的な果物には、重みが無かった時代でした。

 その後さくらんぼ栽培はリンゴ、洋なし、桃などの果物とともに山形県内で普及し、官民一体となっての努力も実り、現在、山形県のさくらんぼ生産量は全国生産量の75%を占めるまでの「さくらんぼ王国」ができあがりました。

 そこには、それぞれに違った分野の2人が展開した革新的な事業に負うところが大きいのです。佐藤栄助氏(1869-1950)が品種改良した秀逸な品種「佐藤錦」の登場と、ヤマト運輸の小倉昌男氏(1924-2005)か昭和51年に開発した全国配送革命といわれる全国を対象に小口で個別の配送システム「宅急便」が出逢ったところから山形のサクランボは急速に全国に広がるようになったのです。


 ■佐藤錦の生みの親は、山形県東根市の篤農家、佐藤栄助氏(1869~1950)。氏は、さくらんぼの品種改良に夢をかけていた。というのも、明治時代は「日の出」「珊瑚」「若紫」などを栽培していたが、せっかく収穫したのに日持ちが悪くて腐らせてしまったり、出荷の途中で傷んでしまったりと、生食の需要は無く、ほとんどが缶詰などの加工用の需要でした。

 大正元年に栄助氏は、日持ちはよくないが味のいい「黄玉」と、酸味は多いが固くて日持ちのいい「ナポレオン」をかけ合わせてみる。この未知なるものはやがて実を結び、氏の夢をはらみながら、すくすくと育ちます。やがて実った実から種をとり、それを翌年にまいて50本ほどの苗を作り、その中から葉が大きく質の良さそうな苗だけを選び抜いて移植し、約20本を育てることにしました。 いよいよ10年後の大正11年に初めて新しい木に実が成りました。

これこそ世紀の発見である。「食味も日持ちもよく、そして育てやすいさくらんぼ」の夢に手が届きそうな実ができて、ここで氏は、さらに良いものを選び抜き、最終的に一本にしぼって原木に決定することになりました。

 この時までずっと栄助氏とともに情熱を傾けてきたのが、友人であり苗木商を営んでいた岡田東作氏は岡田氏はこのすぐれた新品種の将来性をいち早く見抜き、昭和3年に「佐藤錦」と名づけて世に広め、実質的には育ての親となる。大正元年から苦節16年、ここに山形生まれの比類なき品種が誕生したのでした。

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 樹齢70年になる佐藤錦


「何かに夢中になると、なりふりかまわずのめり込む人でした」と振り返るのは、栄助氏の孫にあたる佐藤栄泰氏。「佐藤錦の原木は、大がかりな雨よけテントなどをかけられ、とにかく大事にされていたようです」とのこと。「ほかの木に比べると本当に甘くてうまかった」と貴重な思い出を語ってくれます。
その特長は、見た目がきれいな鮮紅色で光沢もあること。甘みが多く、果皮が厚くて遠地輸送にも耐え、さらに収量が安定していることなど。また重さは一粒7~8gだが、このごろでは12~13gの大玉も見られます。
佐藤錦誕生秘話より―東根市―

 ■この後、佐藤錦は少しずつ出荷量を伸ばし、昭和50年頃から生食用の需要が高まって一気に全国区に躍り出る。そこには生食で魅力を発揮する新品種「佐藤錦」の登場と「鮮度がいのち」である生鮮食料品を全国にスピーディーに配達するヤマト運輸の「宅急便」(昭和51年誕生)の出会いを見逃す事はできません。宅急便の誕生でさくらんぼの「生食」としての価値が一気に全国規模に広がるのです。

■ヤマト運輸「宅急便」誕生
全国のトラック台数が204台だった1919年、ヤマト運輸は銀座でトラック4台を保有する自動車輸送専門会社としてスタートしました。そして、創業11年目には、日本初の路線事業を開始。数年後には関東一円に輸送ネットワークを作り上げるほどに成長したのです。時代は高度成長期で、路線トラック事業が爆発的な伸びを示した時期でもありました。

 ところが、暗い影が忍び寄ってきたのもそのころ。60年代半ば以降、高速道路が次々に完成し他社は長距離輸送にどんどん参入していきました。しかし、ヤマト運輸は市場の変化を見逃し、出遅れてしまったのです。気付いた時にはすでに手遅れで、荷主さんは先発業者を利用していました。そんな時、73年にオイルショックが発生。繁栄の道から一転し、経営危機がささやかれる会社になってしまったのです。


1971年に社長になった小倉昌男氏は、ヤマト運輸が低収益である理由を追求します。そして、それまで業界の常識だった「小口荷物は、集荷・配達に手間がかかり採算が合わない。小さな荷物を何度も運ぶより、大口の荷物を一度に運ぶ方が合理的で得」という理屈が誤りだと気付いたのです。小倉は「小口の荷物の方が、1kg当たりの単価が高い。小口貨物をたくさん扱えば収入が多くなる」と確信し、75年の夏「宅急便開発要項」を社内発表しました。この要項には「基本的な考え方」として

[1]需要者の立場になってものを考える
[2]永続的・発展的システムとして捉える
[3]他より優れ、かつ均一的なサービスを保つ
[4]不特定多数の荷主または貨物を対象とする
[5]徹底した合理化を図る
が記されていました。

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    当時の宅急便のマニュアル

この宅急便の原点とも言える「5箇条」をもとに、若手社員を中心としたワーキンググループが新商品開発を進めたのです。
 そして1976年1月20日「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達・運賃は安くて明瞭・荷造りが簡単」というコンセプトの商品『宅急便』が誕生したのでした。
― 宅急便30年のあゆみ ヤマト運輸― より

このように生食の「さくらんぼ」の全国に拡大していく生産と需要の推移は東根市の篤農家、佐藤栄助氏(1869-1950)が品種改良した秀逸な品種「佐藤錦」の登場と、ヤマト運輸の小倉昌男氏(1924-2005)か開発した全国配送革命といわれる新商品である全国を対象に小口で個別配送システム「宅急便」が出逢ったところから急速に全国に広がるようになったのです。この二人の存在なしには「山形さくらんぼ王国」の完成は語れないといえるのです。

■30年前、当時の荷物の送り方

当時、一般個人がモノを送るためには郵便局に荷物を持っていく必要がありました。それでも郵便局が受け付けてくれるのは6kgまで。それ以上の場合は、しっかり梱包し紐をかけ、荷札をつけて国鉄の駅に持ち込まなければいけなかったのです。こうした状況を振り返って小倉は「私は、このマーケットは大変おもしろいと思っていた。なぜなら、競争相手がいないのです。一応2社あるが、どちらもあまりサービスが良くない。田舎から柿を送っても、東京にいつ着くのかはっきりしない。ここへ参入すれば、必ず成功すると確信しました(後略)」と述べています。

投稿者 味の農園 : 11:10 | コメント (0) | トラックバック (0)

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