全国のトラック台数が204台だった1919年、ヤマト運輸は銀座でトラック4台を保有する自動車輸送専門会社としてスタートしました。そして、創業11 年目には、日本初の路線事業を開始。数年後には関東一円に輸送ネットワークを作り上げるほどに成長したのです。時代は高度成長期で、路線トラック事業が爆 発的な伸びを示した時期でもありました。
ところが、暗い影が忍び寄ってきたのもそのころ。60年代半ば以降、高速道路が次々に完成し他社は長距離輸送にどんどん参入していきました。しか し、ヤマト運輸は市場の変化を見逃し、出遅れてしまったのです。気付いた時にはすでに手遅れで、荷主さんは先発業者を利用していました。そんな時、73年 にオイルショックが発生。繁栄の道から一転し、経営危機がささやかれる会社になってしまったのです。
1971年に社長になった小倉昌男氏は、ヤマト運輸が低収益である理由を追求します。そして、それまで業界の常識だった「小口荷物は、集荷・配達に手間が かかり採算が合わない。小さな荷物を何度も運ぶより、大口の荷物を一度に運ぶ方が合理的で得」という理屈が誤りだと気付いたのです。小倉は「小口の荷物の 方が、1kg当たりの単価が高い。小口貨物をたくさん扱えば収入が多くなる」と確信し、75年の夏「宅急便開発要項」を社内発表しました。
この要項には 「基本的な考え方」として
[1] 需要者の立場になってものを考える
[2] 永続的・発展的システムとして捉える
[3] 他より優れ、かつ均一的なサービスを保つ
[4] 不特定多数の荷主または貨物を対象とする
[5] 徹底した合理化を図る
が記されていました。
この宅急便の原点とも言える「5箇条」をもとに、若手社員を中心としたワーキンググループが新商品開発を進めたのです。
そして1976年1月20日「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達・運賃は安くて明瞭・荷造りが簡単」というコンセプトの商品『宅急便』が誕生したのでした。
― 宅急便30年のあゆみ ヤマト運輸 ― より
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