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くだもの歳時記

庄内柿を開発し普及した庄内藩士

 

 

庄内柿は別名 調良柿と呼ばれ


種のない不思議な柿を見つけた酒井調良は、明治26年、西田川郡黒森村(現在の酒田市)に果樹園を作り、その柿の苗木育成に挑戦します。その果樹園は、晩年の調良の号ともなる『好菓園』という名で呼ばれました。

 

調良はこの果樹園で接ぎ木を繰り返すことによって本数を増やし、明治30年ころには苗木の分譲ができるようになるまで栽培し続けました。この柿の木の将来性を信じていた調良は庄内地方の各地でこの柿の木の優れているところを説いて普及してまわりました。

 

調良の熱意ある普及活動は遊佐町や温海町など庄内各地に広がり、この当時、この柿の木は『調良柿』と呼ばれ親しまれていました。次第に増えていく『調良柿』。しかし、この『調良柿』は一つの大きな問題を抱えていたのでした。

 

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柿を解凍するときは自然解凍又は冷蔵庫で時間をかけて


 

問題は庄内柿が渋柿だったこと


それは『調良柿』が渋柿だったということでした。柿の木は大きく甘柿と渋柿に分けられます。『富有柿』に代表される甘柿は果実が熟せばそのまま食べられるのですが、庄内柿などの渋柿は渋抜きをしないとおいしく食べられません。その原因はタンニンという成分のためです。タンニンは舌の上で溶けると、ものすごく渋く感じます。渋抜きとはこのタンニンが溶けないように処理することなのです。

 

当時は湯ざわしという方法が一般的な渋の抜き方でした。しかし、この方法では完全に渋が抜けないことが多く、また日持ちという点でも問題があり、遠くへの出荷ができませんでした。

 

この難問を解くために、調良は大正の初めに原煕(はらひろし)農学博士の元を訪ねました。『調良柿』がすばらしい品種であると感じた原博士は、渋抜きの方法としてアルコールによる方法を調良に示唆しました。

 

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渋柿をアルコールで甘い柿に変える技術を開発した


 

渋柿を渋抜きして甘い柿に


この原博士の指導のもとに調良は研究に研究を重ね、ついに焼酎による渋抜き方法、焼酎ざわしを完成させました。現在でもよく利用されているこの渋抜きは調良が改良を重ね開発した方法なのです。

 

地での好評に調良は自信を深め、さらに『平核無柿』の普及に励みました。大正11年には、調良の主唱による柿の栽培加工に関する講習会が開催され、庄内全域から約300人もの受講生が集まりました。

 

また、能筆家としても名を知られていた調良は、『平核無柿』を栽培し出荷した人の褒賞として自筆のびょうぶや額を与えるなどして、庄内一円にこの柿が広まるよう努力を惜しみませんでした。

 

庄内藩の歴史として脈々とうけつがれる

庄内藩の歴史として脈々とうけつがれる


 

全国へ市場開拓にも取り組む


渋抜きの問題を解決した調良は、早速、販路の拡大を目指します。

原博士に『平核無柿』という名をつけてもらい、まずは大正3年、札幌の知人に向けて柿を試験的に送りました。調良は柿の育たない北海道を出荷の主力に考えていたのでした。

 

送った『平核無柿』は外観・味ともに大きな問題もなく届き、これ以降、北海道への柿の出荷は次第に増えていき、現在でも生産量の約6割が北海道に送られています。

 

調良は北海道への出荷に満足せず、東京への出荷の計画を立てます。大正11年と12年、同郷の仲間3人と上京して、三越デパートで『平核無柿』の販売しました。
どちらでも『平核無柿』は好評でした。特に東京では、それまでの市場で好評を得ていた『富有柿』よりも高値で販売されるほどでした。

 

 

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鶴岡公園にある酒井調良の胸像


 

庄内藩士の高い志が庄内柿に


その後も調良は白またひき・白足袋・白ふろしきといった格好で、町村役場や農会など至る所で『庄内柿』の優秀さを説いてまわりました。こうして庄内の名産物『庄内柿』の基礎を築き、調良は大正15年、79歳で亡くなりました。

 

調良の死後は長男駒太郎と、小さいころから調良の手助けをして養子となった守平はその意志を受け継ぎ、駒太郎が鶴岡の生家で、守平が好菓園でともに『庄内柿』の栽培・改良に努力を重ねました。

 

昭和の始めには、庄内の多くの農家が『庄内柿』の栽培をするようになり、『庄内柿』の市場はどんどんと活気あふれるものへと膨らんでいきました。 また、昭和7年から12年までの6年間に『庄内柿』の苗木の無料配布が行われました。これによって農地だけでなく、住宅地の多くでも『庄内柿』が見られるようになりました。

 

 

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庄内柿の畑から鳥海山を望む。酒井調良は大正15年に亡くなる


 

庄内柿の生産は日本一に


こうして親しまれてきた『庄内柿』は昭和56年に行われた市民アンケートで数多くの支持を得て、同年10月に旧鶴岡市の『市の木』となりました。そして昭和40年代後半には山形県の柿の収穫量は全国第1位までになりました。(平成18年産は第8位、農林水産省調べ)

 

現在、県全体の柿の収穫量の81.3%は庄内地方で生産されています(平成17年産 山形農林水産統計年報より算出)。多くの人たちの手を経て『庄内柿』は、調良が予見していたとおり、庄内を代表する産業となりました。

 

こうした普及活動の最中の大正14年の秋、当時の皇太子殿下が庄内においでになることを知った調良は、山形県西田川郡袖浦村果実共同出荷組合の代表として柿二箱を献上しました。
このとき初めて『庄内柿』の名前が使われ、以後、『庄内柿』という商品名は全国的に知られるようになりました。

 

 

 

参考文献/「鶴岡市史 下巻」、「鶴岡百年の人物 上」鶴岡百年の人物刊行会ほか

 

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