芭蕉と紅花大尽との出会い
奥の細道に入ってみる。松尾芭蕉が奥の細道の旅に出る時期は江戸元禄時代、紅花商人が活躍した最盛期に重なります。お芭蕉も最上川を船で移動しました。元禄二(1689)年旧暦五月十七日、芭蕉は『おくのほそ道』の難所の一つ山刀伐(なたぎり)峠を越えて、尾花沢おばなざわへとたどり着きました。
陸奥から鳴子、山刀伐峠を越え尾花沢に出ます。最上川を船で下り出羽へと出て、これから日本海側の旅が始まる計画になっています。尾花沢には、芭蕉旧知の俳人、鈴木清風が住んでいたことからの訪問でした。
紅花商人であり豪商でもあった清風に歓待されて、芭蕉とその門弟曾良は、この地で十泊『おくのほそ道』の旅で奥州に入ってから最長の逗留をしています。
松尾芭蕉も最上川を渡る
今日では県の花にも指定されている紅花ですが、置賜・村山地方では古くからの特産品で、最上紅花として全国的に名声を博していました。この紅花生産の発達は紅花を各地へ回漕する紅花商人に多大な利益をもたらしました。江戸後期に栄えた山形の紅花商人は現在の金融・商業会のような中心的な存在にありました。
かれら紅花商人の中で破格の利益を生み出したものは「紅花大尽」と呼ばれ、代表的なのは尾花沢の鈴木清風でした。清風は紅花大尽とまで言われるほどの豪商として有名でしたが、商人としては珍しく俳諧をたしなみ、松尾芭蕉とも親交がありました。その人柄が芭蕉の『おくのほそ道』に伝えられています。
紅花大尽とは清風を指す言葉
紅花大尽とは、紅花の取引で財を成した人や、遊び上手な紅花商人のことを指します。多くの紅花商人はいましたが、本当の意味で、紅花大尽というにふさわしい人物は、尾花沢の鈴木清風ただ一人です。
今、尾花沢市にある芭蕉・清風歴史記念館には当時の資料が保存されていますが、多くの紅花商人が同じように上方文化や江戸文化をふるさとに持ちこみました。紅花流通の道は、いわば文化の道でもあったのです。
紅花大尽がのこした伝説
清風伝説という面白い物語が残って言います。清風の江戸でのお話し、江戸の商人たちが、出羽の紅花の田舎商人と見下して紅花不買の同盟を結成し結託して紅花相場を崩そうと画策したのです。
そこで、清風は品川海岸で紅花を焼き捨てるという大イベントを行います。まさかの焼き捨てに紅花は高騰し高値を呼ぶことになったのです。しかし、実は清風が焼き捨てたのは、色をつけたカンナ屑だったのというのです。
落ちは、どんでん返しの結果として、清風は三万両の利益を得ることに。ただし、江戸の金は江戸に還元すべしとして、清風は遊廓吉原の大門を閉じさせ三日三晩借りきったといいう話です。
俳諧人であり気骨の商人
紅花の不買同盟に対して、商品を焼き捨てた様に見せかけて大商いをしたなど、気骨のある商人として江戸でも話題に。この粋な噂は江戸の巷に流れ、さすがの江戸っ子も紅花商人のきっぷのよさに舌を巻き、吉原では「最上衆なら粗末にならぬ、敷いて寝るよな札くれる」などと唄われたともいいます。
またこんな話まであります。清風を意気に感じた吉原最高位の遊女高尾太夫は彼と恋仲になり、別れに際して柿本人麿像を渡すというお話までに。そして人麿像は、清風の屋敷内に建てた人麿神社に祀られたという。
鈴木清風とはどんな人
鈴木清風[すずき・せいふう](1651~1722)出羽国村山郡尾花沢村に生まれ、そこに生涯を閉じる。通称八右衛門(三代目)、清風は俳号。1689年(元禄2年)に俳聖松尾芭蕉が清風邸に3日間宿泊しています。芭蕉もそれほど信頼した人物という事ではなかったかと推測できます。
本名島田屋・鈴木八右衛門。清風は俳号。紅花大尽といわれた豪商で、談林系の俳人でもある。芭蕉とも交遊が深く、芭蕉が尾花沢の清風亭に逗留したときの様子は『おくのほそ道』に詳しく描かれ、文中で清風の人柄を褒め、名句を残した。
江戸で名をあげた鈴木八右衛門は、清風として俳諧に親しんだ人でもあり、俳聖芭蕉とも交流がありました。芭蕉は奥の細道の途中、尾花沢の清風のもとに十日間も滞在し、区会を開いたり、山寺に遊んだりしています。
松尾芭蕉と相通ずるもの
芭蕉は『奥の細道』で「尾花沢にて清風という者を尋ぬ。かれは富めるものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日ごろとどめて長途のいたはりさまざまにもてなし侍る。」と尾花沢滞在中の10日間、清風の厚いもてなしに旅情がなぐさめられたと書いているのです。
清風は若い時から商取引で京都や江戸を往復するかたわら金銀貸しを営み、俳諧に親しんだ。清風は、俳人でもあったが、本業は「島田屋」という商家の三代目で、豪商としても有名でした。
松尾芭蕉の艶っぽい紅花の句
まゆはきを俤おもかげにして紅粉べにの花
紀行文「おくのほそ道」所載。
掲出句の「紅粉の花」は山形の県花でもある紅花のこと。松尾芭蕉が1689年に天童を訪れた際に詠んだ句といわれます。「眉掃き」は、白粉をつけた後で眉を払うために使われる小さな刷毛のことです。「紅粉の花」は、ベニバナのことで、夏の季語です。
この句の意味は、「いずれ女性の唇をいろどる紅となる紅花、そのかたちも、女性が化粧に使うまゆはきのかたちを彷彿とさせる」です。芭蕉はよく紅花を見て、そのかたちに「まゆはき」を感じ取っていたと言われています。
この句碑は、江戸時代、山寺参詣の途中、紅花畑を目にした芭蕉が紅花を題材に句を詠んだという場所にあります。
あでやかな紅花と紅と唇という艶めかしい。『おくのほそ道』中、もっとも色っぽい句と言ってもいいほど。蕉門を代表する俳諧撰集『猿蓑』にも収録されています。芭蕉が自信を持っていた句の一つといわれています。
山形の紅花生産から流通まで
山形県最上川流域の4市4町は、最上川の舟運によって結ばれ、県内で紅花を栽培し「紅餅」生産が行われていた地域の中で、現在まで生産を伝承してきた地域です。現在においても、紅花生産は農業経営の一部門としてしっかりと位置づけられています。
江戸時代の紅花は、非常に貴重で高価なものでした。紅花から採れる「紅」は、口紅や頬紅の原料として使われていましたが、生花の重量の0.3%程度しか採れず、非常に高価でした。最上紅花その価値は米の百倍、金の十倍。 紅花は莫大な富をもたらし、 経済文化発展の礎となりました。
米の百倍、金の十倍の価値
江戸時代の紅花は「紅一匁金一匁」と言われるほど高価で、ごく一部の裕福な人々しか使うことができませんでした。紅花を摘む農家の娘たちとは無縁のものでした。江戸時代の紅花は、換金作物として県内各地で生産されていました。山形県は全国有数の紅花産地で、「最上紅花」と呼ばれ紅餅に乾燥加工され京都に送られていました。
紅花は明治になって代替商品の出現で商品価値を完全に失いましたが、現在は4市4町の118名に伝承され、水稲、そば、野菜等との複合経営の一部門として重要な品目に位置づけられています。また紅花染になって伝承されています。
参考:「山形県大百科事典」「山寺と紅花」推進協議会
参考文献:山形県の歴史、最上川舟運と山形文化、羽州山形歴史風土記、北前船の近代史、藩物語 庄内藩、藩物語 山形藩、庄内藩幕末秘話、ほか
芭蕉、清風歴史資料館
おくのほそ道の旅で芭蕉は清風を訪ね尾花沢に十泊している。鈴木清風は元禄期に金融、貸付、特産品の買継などで富を築いた出羽の豪商で紅花大尽と言われている伝説の人です。
芭蕉、清風歴史資料館では芭蕉と清風の尾花沢での出会いをしのぶことができる。建物は旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を清風宅の隣に移転復元したもので、土蔵造の「みせ」には防火扉の蔀戸がつられている。母屋は通り土間を設けた中門造で、雪国の民家・町家建築の配慮をみることもできます。
芭蕉・清風歴史資料館
山形県尾花沢市中町5-36
0237-22-0104