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山形日記

最上川の流れ滔々 山形の文化と人々

最上川 山形文化 舟運

最上川の概要と役割から


米沢市の西吾妻山を水源とし、米沢盆地、山形盆地、新庄盆地、庄内平野を通って、酒田から日本海に注ぐ最上川。1つの県のみを流れる川としては日本一の大河です。その流域面積は、山形県の面積の75%を占めており、その流域人口は山形県人口の8割にもなります。

 

最上川の豊かな流れは、昔から山形県に住む人々の生活と密着しており、母なる川として親しまれてきました。農業用水の利用や漁業の営みはもちろん、交通路としても重要な役割を担っていたのです。現在でも農業用水をはじめ、工業用水、生活用水、水力発電など、私たちの生活にとても役立っています。

 

この川は、すでに平安時代には「最上川(もがみがわ)」と呼ばれ、人々が流通・往来の道として川を利用していたことが解っています。川べりに人々の暮らしがあったからのことでしょう。

 

最上川 舟運 紅花

山形県を約240㎞に縦断する最上川は経済の大動脈


 

日本海へ日本三大急流の一つ


最上川は、山形県と福島県との境、西吾妻(にしあずま)を源として、気候や風土がそれぞれ異なる県内の4つの地域(置賜(おきたま)・村山(むらやま)・最上(もがみ)・庄内(しょうない)を貫いて流れ、他県 に出ることなく日本海に注ぎます。

 

最上川は、5つの盆地と5つの狭さく部が交互に連なる流域からなります。5盆地、5狭さく部とは、米沢盆地~伊佐沢峡谷~長井盆地~五百川峡谷~山形(村山)盆地~碁点峡~尾花沢盆地~実栗屋峡~新庄盆地~最上峡を指し、そして最後は庄内平野を流れ、酒田から日本海へと注ぎます。

 

したがって、全長240kmのうち、約200kmは盆地と狭さく部が目まぐるしく変化する地形と景観を見せます。そして、下流域の庄内平野を流れるのは29kmに過ぎません。このことが日本三大急流の一つに数えられる要因になっています。

 

 全国的には熊本県の球磨川、山梨県から静岡県を流れる富士川と共に、日本三大急流の一つとして知られています。

 

山居倉庫 小鵜飼船 最上川舟運

山居倉庫に隣接する船着き場、酒田市


 

山形県を貫く母なる最上川


山形県は大きく置賜、村山、最上、庄内の4つの生活圏に区分けできますが、この4つの地域を貫いて流れるのが最上川です。産業も文化も物流も長きにわたり依存してきた命の川とも、母なる川ともいえます。

 

最上川水系は、その流域に県都「山形市」をはじめ山形県の約8割の人口を有し、置賜地方や村山地方といった工業集積を有しています。河口付近は、日本有数の穀倉地帯である庄内平野が広がります。

 

中流部となるぬら山形盆地を中心に内陸部は果樹栽培が盛んで、サクランボ、ラフランス、ブドウなどの一大産地を形成しています。

 

また、古今和歌集の中で「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」と歌われた平安時代から、最上川は物流・交通の大動脈として利用され、やがて4つの生活圏を繋ぐようになり、お米、紅花、青苧などの基幹産業を支えました。

 

紅花 紅花商人 最上川

紅花は最上川によりお米に匹敵する大事な産業に成長します


最上川が生んだ紅花文化


最上川は古くから、舟運が行われ重要な交通路となっていたほか、その風光明媚な姿は、松尾芭蕉が奥の細道の旅に出かけた江戸の頃、最上川舟運は繁栄を見せています。最上川の舟運によって生まれたのが 山形特産の「紅花」です。江戸時代に最盛期を迎え全国区の産業に育ちました。

 

その象徴的なのが紅花大尽と呼ばれた紅花商人ナンバーワンと呼ばれた鈴木八右衛門です。江戸後期に栄えた山形の紅花商人は現在の金融・商業会のような中心的な存在にありました。かれら紅花商人の中で破格の利益を生み出したものは「紅花大尽」と呼ばれ、代表的なのは尾花沢の鈴木清風でした。清風は紅花大尽とまで言われるほど、豪商として有名でした。

 

商人としては珍しく俳諧をたしなみ、松尾芭蕉とも親交があり、その人柄が芭蕉の『おくのほそ道』に伝えられています。ちなみに紅花は山形県の花、県花に指定されています。

 

最上川 山形県 母なる川

母なる川としての最上川流域の学校の校歌にも


 

米沢から酒田 最上川240㎞


県南の吾妻連峰に端を発する最上川は、流域面積で山形県面積の76%、流域には県人口の8割を超える人々が暮らしています。昔から人々の生活に深く関わり、1県だけを流れる川として日本一の大河である最上川を、私たち山形県民は「母なる川」と呼び、愛着をもってきました。

 

それぞれの地域の境界には、最上川舟運時代の難所であった狭さく部が含まれます。そして、各地方に特徴的な方言や文化が育まれ、特有の風土が醸成されていきました。

 

最上川全域をボートで下るとすれば「下る」というより、谷を縫うような狭さく部ではまさに山に向かっていると感じるほどです。この地形的な特徴こそが山形県の歴史、文化、産業、芸術など、あらゆる面に大きな影響をもたらしました。

 

江戸時代には、お米や紅花をはじめ県全域のさまざまな特産物が、舟運によって酒田湊を経由して京、大坂などへ運ばれ、帰り船で持ち帰った雅な上方文化である雛人形や陶芸品といわれるお宝が、今も各地に息づいています。

 

最上川 最上狭 四季の景色

自然厳しい山々の間を雄大に流れる最上川


 

最上川と山形の山々と自然


最上川は、流域に90万を超える人口を抱えながらも、全域でサケやアユが生息するほどの水質を保ち、豊かな河川環境をもたらしています。また、盆地と狭さく部の繰り返しは、四季折々の変化に富んだ美しい景観をつくり出し、多くの文人、芸術家を惹きつけました。

 

江戸時代に松尾芭蕉も山形には長く逗留して多くの俳句をも越しています。春夏秋の色飾りを脱いだ最上川は、降り積もった深雪が周辺の喧騒を吸い込み、静まりかえった流れが水墨画のよう。

 

1,000年を超える人と川の歴史。四季を通じて多くの恵みをもたらす流れ。母なる川・最上川は、山そのものを神として崇拝する出羽三山信仰とも結びつき、山の水、すなわち神の水を集め、今日も神々しさを湛えています。

 

最上川 最上狭 観光船

紅葉に色付く最上狭の風景は印象深い


 

 

芭蕉ゆかりの最上狭


かつて最上川河口に位置していた酒田港、洪水防御を図りつつ安定した港を造るため、港と河が分離され現在の姿となったのは、大正から昭和初期にかけての工事によるものです。最上狭は松尾芭蕉ゆかりの地が多い最上川、最上峡もその一つ。最上峡の他、大淀、大石田の観光舟下りにより最上川を身近に感じることができます。

 

最上峡は、山形県の最上川中流にある渓谷で、戸沢村古口地区から庄内町の清川地区の全長16㎞の区間になります。山形県の母なる川、最上川流域の中でも随一の景観を誇る最上峡。両岸に山が迫る雄大な景色がお楽しみいただけます。四季折々に色々な表情を見せる最上峡は見事です。

 

春は点在する山桜が山々を彩り、夏は見渡す限りの新緑、秋は山々が錦に染まり紅葉が水面に映える。冬は水墨画の世界に迷い込んだような絶景が。

 

北前船 千石船 弁才船

酒田市日和山公園の千石150t積載した千石船レプリカ


 

西廻り航路と酒田湊


現在、河口部に隣接する酒田港では、中国黒竜江省間の「東方水上シルクロード」の開設をはじめとし、韓国等との外貿コンテナ航路を開設し、国際化に向けた取り組みも行われています。

 

西廻り航路の繁栄は井原西鶴の「日本永代蔵」にみられます。鐙屋惣左衛門は、酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たした姿を今に伝えております。北日本一の豪商と詠われました。

 

鐙谷の屋敷は石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りとなっており、内部は通り庭(土間)に面して、十間余りの座敷、板の間が並んでいます。昭和59年に国の史跡指定を受けました。江戸時代には西廻り航路の発展により、山形からは山形内陸部から最上川舟運で運ばれた紅花、お米、青苧等が主に関西や江戸に向けて運ばれていました。

 

川村瑞賢 西廻り航路 北前船

酒田市日和山にある川村瑞賢像


 

最上川の名前由来とは


 この川は、すでに平安時代には「最上川(もがみがわ)」と呼ばれ、人々が流通・往来の道として川を利用し たことがわかります。

 

最上川の名前の由来についてはいろいろな説があります。日本最古の漢和辞典「和名類聚抄【わみょうるいじゅしょう】」には「毛賀美」と書かれており、「珍しい岩石の多いところ」という意味があります。

 

また、アイヌ語で「もがみ」は静かなる神を意味し、そこからきているという説もあります。その他には、庄内平野から上がった最上峡が、アイヌ語で「モモ」の地であり、その「モモ」の「かみ」にある広い盆地が「モモカミ」と呼ばれたことからきているという説などがあります。

 

最上義光 山形藩 57万石

山形城、霞城公園大手門にある最上義光像


 

最上義光の最上川舟運整備


最上川は、現在のような姿になるまでには幾多の河川改良工事をくりかえしています。流域周辺に雨や雪の多い地域があり、盆地と峡谷を交互に繰り返しながら流れます。

 

山々が急峻なところが多く、狭いうえに岩盤が表れているところもあります。つまり、多くの舟運難所があり、たびたび洪水をおこしてきました。人々はこうした河川の特性を克服し、安定した 通船の確保や利水・治水に努めました。

 

舟運の難所では神仏に航行の安全を祈るといった危険とのリスクが高い事業でした。安全に山形の内陸部までの船の道をつくるという人々の悲願が少しずつ出来ていくことになります。

 

江戸初期に57万石の大大名となった最上義光が最上川整備と河岸などの設置をする最上川舟運の大整備をします。

 

河岸などの船着き場を整備しました。特に三難所と呼ばれる狭窄部を開削し岩盤掘削など舟道(ふなみち)の整備 にも取り組みました。ようやく酒田からの川船による舟運が最上川中流部である大石田を基点に村山地域の活性化が始まるのです。

 

小鵜飼船 最上川舟運 最上川

最上川舟運に使われた小鵜飼船-山居倉庫


上流部まで大型川船が入る


最上義光が最上川整備にあたったのは江戸初期(1601年)そのころはまだ最上川中流域の大石田あたりまでが舟運の中心でした。しかし、その後米沢藩の御用商人、西村久左衛門が正部の黒瀧を開削してから、ようやく上流部にあたる河岸としての左沢まで大型の川船、ひらた舟が入れるようになったのです。

 

主に、本流の広い川にはひらた舟を使います。規模は米250俵4人乗りです。狭い支流などには小鵜飼船50俵3人乗り規模の船を使っていました。ひらた舟が乗り入れできると一気に規模が5倍の荷物が運ぶことが出来るようになります。

 

最上川舟運は江戸時代の元禄年間、左沢までほぼ全域でひらた舟の通船が可能となり、酒田湊(さかたみなと)で日本海海運と結びつき、長い間、流通往来の大動脈の役割を果たしました。

 

米や紅花(べにばな)・青苧(あおそ)の特産物を上方に運んだだけでなく、京都や大坂からの塩や木綿、砂糖などの物資、同時に上方の文化を運んできました 。

 

参考文献:山形県の歴史、最上川舟運と山形文化、羽州山形歴史風土記、北前船の近代史、藩物語 庄内藩、藩物語 山形藩、庄内藩幕末秘話、ほか

 

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