紅花商人の活躍と由来
最上川流域では、なぜ紅花の大産地が形成されたのでしょうか。気候・土壌が栽培に適していたということもありますが、山形の他に、奥州福島・奥州仙台・奥州三春・西国肥後・尾張・遠江・相模などで生産されていました。
最上紅花は品質が良いとされていたのは、ただ単に気候・土壌が決定的な要因だったというわけではなさそうです。むしろ、最上川の舟運で山形と京都や大阪が深く結びつき、紅花商人たちが活躍したことが、産地を盛り上げブランドの拡大に繋がったと考えたほうがいいかもしれません。

紅花は産地で加工され紅餅という凝縮、乾燥工程を経て流通
紅花商人として近江商人の貢献
紅花商人たちは、山形から紅餅を京へ出荷し、京からの帰り荷として古着、塩、魚、お茶などを持ち帰り、各地に広く商いました。行きで儲かり、帰りでも儲かるとのことで、この商売は「ノコギリ商売」と呼ばれたということです。
現在でも、最上川流域の市町村には、紅花商人たちによって京から持ち帰られた江戸時代の雛人形(享保雛、古今雛など)がたくさん残存し、「山形雛のみち」や「庄内雛のみち」といわれるほど雛祭りが盛んに行われています。
一方、紅花から採れる口紅・頬紅用の紅(べに)は生花の重量の0.3%程度と少なく、江戸時代には「紅一匁(もんめ)金一匁」と言われるほど高価なものであったため、紅はごく一部の裕福な人々しか使用できず、紅花を摘む農家の娘たちとは無縁のものでした。

山寺の総本山は近江の国比叡山です。
近江商人と山寺の関係
近江商人にとって慈覚大師が開いた山寺は、強く惹きつけられる存在でした。出羽山形藩の最上義光は商才のある近江商人を山形へ誘致することによって上方との取引を盛んにしようと動きました。
山形城の城下町、現在の十日町~七日町界隈に土地を分けて店舗を構えさせ、地元の商人とともに紅花交易を盛り立てました。そうして富を築き上げた紅花商人たちは現在も商いの形を変えながら山形の経済をけん引しています。
近江商人にとって慈覚大師が開いた山寺は、ふるさとの比叡山を思い起こすモチベーションが高まる強く惹きつけられる存在でした。

紅花を西廻り航路で流通し帰りには京都の雅が流入する
上方文化と江戸文化の両立
街の景観も然り、特に山形市内に今でも残る蔵屋敷は、紅花交易で伝わった上方の座敷蔵文化と羽州街道により伝わった江戸の店蔵文化を兼ね備えています。
また、紅花交易は山形の秋の風物詩である芋煮会や、山形の食卓に欠かせない青菜漬を使った「おみづけ(近江漬け)」など、食文化にも影響を与えています。
近江商人とは大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人のひとつ。 「近江の千両天秤」ともいうように、天秤棒1本から財を築き、三都(江戸、大坂、京都)をはじめとする全国各地に進出し、豪商と呼ばれるまでに発展していった全国ネットワーク人たちを指します。

近江商人が商品開発したという山形の漬物
近江商人と紅花交易
東北の名古刹で山形県を代表する観光地として知られる山形市の 山寺の正式名称は、天台宗宝珠山立石寺です。天台宗の総本山である比叡山円暦寺は、近江国(滋賀県大津市)、近江商人ゆかりの地にあります。
立石寺は、最上義光公が山形城主の時代に寺領 1,420石もの寄進を受けていました。紅花交易で富を得た近江商人もまた、手厚い寄進を行い、立石寺を支えてきました。最上川が生み出した舟運文化は江戸の経済、上方の文化にも影響し、また最上川を上り山形に根付いていきました。

山寺には多くの観光客が訪れこの景色にふれていきます
紅花栽培の盛衰と復興
明治時代になると、四川省産などの中国紅花の輸入が盛んになり、また化学染料アニリンが普及したことにより、山形県の紅花生産は大きな打撃をうけ、明治7年には400駄、翌年には200駄と急速に衰退していったと言われています。
戦後、細々と受け継がれてきた山形県内の紅花栽培の復興の動きが見られ、昭和25年から保存会などが組織され復興の機運が高まり、昭和40年には山形県紅花生産組合連合会が組織されて、生産が拡大していきました。
昭和40年代後半には、山形県産紅花の特性に着目した化粧品メーカーとの間で大量の契約栽培が行われ、最盛期には800人を超える組合員が36haの栽培を行うようになりました。
しかし、契約栽培が無くなるとともに再び需要と生産が減少し、現在では、本物志向の染物業者や化粧品業者、草木染めの愛好者等の需要に応じた生産が行われています。
■山寺が支えた紅花
出典:「最上川舟運と山形文化」横山昭雄著、日本遺産ほか
参考文献:山形県の歴史、最上川舟運と山形文化、羽州山形歴史風土記、北前船の近代史、藩物語 庄内藩、藩物語 山形藩、庄内藩幕末秘話、ほか