鳥海山の恵みを受けた和梨産地の刈屋梨
山形県では、なし栽培は古くから行われ、250年以上の歴史を誇る。産地はいくつかあるが、「刈屋のなし」を抜きにしては語れない。ところが現在、「刈屋」という地名は、正式な住所としてどこを探しても見つからなくなってしまった。
「ここから近い、畑になっている辺りが、昔は『刈屋』という地名だったんだ」とは、酒田市の北部、旧本楯村豊川地区の生産者。「この辺は鳥海山の恵みのおかげでね。日向川が、鳥海山のブナの養分を含んだ土壌を運んできて、それがたい積した最高の土地なんだ」ということで正式には酒田市豊川という住所です。
つまり、旧刈屋を含むこの周辺 一帯こそ、伝統を現代に引き継ぐ名産地ということになります。
「刈屋のなし」は明治初期ごろから産地化され、当時、苗木の代金は炭やナタネと物々交換。「赤龍」「土佐」「三吉」などの品種だったという記録も残る。明治30年頃、「長十郎」が導入された。この後、刈屋は「味の良い長十郎の産地」として一気に人気爆発。その味を決めたのが、やはり水はけのよい肥えた土のおかげだったとされます。
同時に、人々がなし栽培に傾けた情熱も並大抵ではなかったようです。山形県人は何にでも真面目に取り組み、しかも他人の真似事はしないという傾向があるようです。
山形県の和梨は、こうした県民性が結実して「量より質」の折り紙が付いたものといえるかもしれません。
日本のなしの栽培品種は昭和40年代まで「南の二十世紀、北の長十郎」といわれ、二強時代が続きました。いずれも、日本原産のヤマナシから発達したものだ。
山形県はもちろん、「長十郎」で勝負をかけてました。秋の和梨といえば「長十郎」代名詞の時代が長く続きました。

鳥海山のミネラルたっぷりの水と土壌が「刈屋梨」を育む。
和梨は昭和50年代になると「幸水」「豊水」「新水」の「三水時代」
しかし世代交代はいたしかたなく、昭和50年代になると「幸水」「豊水」「新水」の「三水時代」が、当地にもやってくる。やがて「新水」は生産性や価格がとれにくいことから淘汰され、現在は果肉がち密で甘い中生種の「幸水」と、多汁で酸味と甘さのバランスがいい「豊水」が主流になります。
さらに晩生で味の良い「鳥海」「南水」や「あきづき」も有望株。品種は変わっても、伝統と風土に育てられた味の真髄は変わりません。
もぎたての「豊水」をごちそうになりました。したたる果汁で手を濡らしながら口に入れると、思わず「う~む!」。ほのかな酸味が甘みを増幅させ、奥に淡い香りが満ちている。さくっとしていながら、しっとり感があるのは、果肉の細やかさと水分が絶妙に調和しているからか…。
丹念な土づくりから始まり、受粉は綿棒を使い一つ一つ手作業で行うなどと聞けば、やはり作り手の熱意が味に生きることを確認できます。人工交配の後30日以内に摘果して余分な実を落とすが、この時点でなしの実の細胞数が決まるというのも面白いことです。数を制限することで、1個あたりの細胞数が多くなり、きめの細かい、なめらかな果肉になります。
秋の日を受け、たっぷりと太った実たちは、いかにも誇らしげでした。

やまがた最北の和梨「刈屋梨」
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やまがた最北の和梨「刈屋梨」
果肉がち密で甘い中生種の「幸水」と、多汁で
酸味と甘さのバランスがいい「豊水」が主流に
なります。さらに晩生で味の良い「鳥海」「南水」
や「あきづき」も有望株。
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